2006年9月28日
アンドレ・ブルトン 没後40年
1966年9月28日、アンドレ・ブルトンがこの世を去って今日で40年の歳月が流れました。
2000年にエリザ夫人が逝き、2003年4月には愛娘オーヴとその娘の意向により、パリでブルト ンの遺品の一大オークションが開かれたことはまだ記憶に新しく、ご存じの方も多いと思いま す。私ども編集部も遺品を眺めにパリへ飛んだわけですが、書籍、原稿、書簡、絵画、写真、 未開民族のオブジェ等膨大な点数にのぼるブルトンの遺品の数々を目の当たりにして、ブラ ンシュ広場近くの下町にあるブルトンの小さなアパルトマンに、よくぞこれだけの点数が収蔵 されていたものだと驚嘆するとともに、ブルトンの死後34年にもわたって、遺品を守り続けて きたエリザ夫人の精神に脱帽する思いでした。
写真左)2003年4月のオークション期間中に撮影。エリザ夫人と
オークションの開催前には、ブルトンの遺品が散逸することに対す る抗議デモもあったと聞いていますが、そのおかげでしょうか、フラ ンス政府が遺品の約半分を買い取って、国内の美術館等に配分 することになり、後世にブルトンの精神の一端が少しでもまとまっ て人々の目に触れる機会が残されたことに、私どもも少なからず 安堵したものです。
それにしても、没後40年、この間の時代の変転は御承知の如くで あり、総じて言えることは、ブルトンが生涯を賭けて目指してきた 状況とはまったく逆の方向へ一直線に進んできた事実です。
理想は死に絶え、詩想は枯れ果て、巨大な物欲の奔流に流れ漂 う人類の末期的症状を呈した21世紀初頭の現実は、今さら言うま でもなく、また言及したところで徒労というものでしょう。
写真左)2003年4月のオークション期間中に撮影。エリザ夫人と
すでに最晩年のブルトンは、そうした社会状況もしくは時代状況に絶望の思いを深くしていた感があり、シャルル・フーリエ の「絶対の隔離」を標榜したこともその表れでした。このことについては、弊社刊行の「至高の愛〜アンドレ・ブルトン美文集」 の訳者あとがきに詳しいので、ぜひお読みいただければと思います。
運動としてのシュルレアリスムは終わりを告げても、現実社会がいかに変転し、科学技術 文明がいかに人間の精神の羽ばたきを阻害しようとも、ブルトンの結晶のような精神は、 「閉ざされた領土」の中で、人類在る限り、必ずごく一部の人々の魂の奥底に埋火のよう に燃え続けると、彼自身が確信していたでしょうし、私どももそう信ずるものです。ブルトン は無知な評者等から絶えず毀誉褒貶にさらされてきましたが、マンディアルグの素晴らし いブルトン追悼文が象徴するように、思想や芸術以前にまず、生き方、魂の在り方の問題 にこそシュルレアリスムの本質があり、それはそのままブルトンその人の人柄と魂の在り方 に分かちがたく結びついています。現世への絶望に襲われたとき、彼の生きざまを思うと、 春の到来のような懐かしさを感じるのは、私どもだけでしょうか。 ブルトンの命日である今日、40年前の識者の追悼を掲げて、しばし彼の生きざまを 追想したいと思います。
A・P・ド・マンディアルグ
アンドレ・ブルトンの訃報は、恐るべき黒い流星のように、我々の頭上におちた。私は、これを冷静に語ることはできない。
私は言いたいのだ。優越性とは何に基づいて生ずる観念なのか、それは、我々から今奪い去られたばかりのこの人のような 稀有の存在に基づく観念なのだ、と。アンドレ・ブルトンは、私にとって、とりわけ優越せる人であった。私が彼にいだいた友 情と讃美とは、常に極度の尊敬と分かちがたく結びついていた。思想と書くことの大君主にむかっては、当然のことだったと 言わねばなるまい。私が、しばしば道徳的な教えを受け、それを受け入れたとしてもそれは、ブルトンをおいて他の人からで はない。
シュルレアリスムは、ブルトンの創造であり、ブルトンの発見であり、ブルトンの所有物である。シュルレアリスムは、ブルトンの 作品とブルトンの人柄との関連においてしか理解されえないし、定義されえない。それらを切り離そうとする試みが、おそらく 行われるであろうが、無駄なことだと私はあらかじめ言っておこう。そして、悲しみに打ちひしがれつつ、私はつけ加えよう。 今後、シュルレアリスムは、私には閉ざされた領土となるように思われると。だが、未来の多くの詩人、思想家、芸術家にとっ て、アンドレ・ブルトンは、フランスに生まれ、フランス語を使った最も偉大な、燈火をかかげる人の一人でありつづけるだろう。
ミシェル・レーリス
シュルレアリスム特有の情念的な要素が、そのまま、あのグループのメンバーを人身御供にした。つまり、不和や分裂が相 次いで起こり、その渦中の軸は、いつもアンドレ・ブルトンだった。だが、あの毒念をはらんだ決裂の思い出から、私の舌を さす不快な味わいが消え去って、もう久しい。そしてまた、もう久しい以前から、私は、彼のおかげで生きられたあの昂揚せ る数年間を懐かしみ、我々を鼓舞した偉大な人としての彼を見続けている。そればかりか、その作家の一生を通じてゆるぎ のなかった彼の威厳と、その青春の理想に、いかなる障害にもめげず誠実であり続けた一徹な彼の意志とのゆえに、私は、 見解の不一致を超えた友情をもって、賞讃おくあたわざる一人の男を、アンドレ・ブルトンの心のなかに見ているのである。
エメ・セゼール
私は、彼ともう会えないでいた。いくつかの事件や生活が二人を引き離してしまったのだ。だが、私は1941年における彼との 出会いを忘れたことはなかった。
それは、私の人生を決定的に方向づけた出会いだった。以来、彼の面影はまさに私につきまとって離れないのである。アン ドレ・ブルトンを通してしか、アンドレ・ブルトンの助けによってしか、私の読むことのできぬ詩があり、私の見ることのできぬ風 景がある。私の生まれた島の風景でさえ。
そこにはいない、けれども温かく、親しい、私にとって、そういう人だった。いつもそうだった。アンドレ・ブルトンの存在は。純 粋と勇気ともっとも気高い徳の化身よ。我々の一人ひとりが、人生に立ち向かうために、ひそかに建てる小さな神殿の中の、 私の「心のよりどころ」よ。
ガエタン・ピコン
彼に関しては、我々が他の何人に関しても言わないであろうことを言おう―彼は一人の作家だったが、それ以上に、一人の 人物であったし、一時期の感受性、知性、言語が、互いに触れあって、共に生き、かつおののく磁場であった。彼に今世紀 のいくつかの美しい作品を書かしめた才能を超えて、彼には最も相異なった人々を一種の共通の場へ惹き寄せる能力が備 わっていた、それは彼らにとって幸運だったわけだ。彼を通して、文学そのものが、その過去、その力、その活動と歴史とに 対する関係、それらのことに関して、もうひとつのヴィジョンを得たのである。彼は姿を消した、だがなおその一時期は続いて いる―彼の開いた空間のなかに、我々はなおも住んでいるのである。
ジュリアン・グラック
今世紀のあまりに多くのものが、この人物の激しい決意と不変の方針に基づいているので、私は今、一人の友人を失った という気持と、巨大な壁面の瓦解を目の当たりにする気持とを、同時に抱かざるを得ない。今は財産目録を作る時ではなく、 ブルトンもそうしたものを好まなかったろう。彼は回顧的ではなかった。私は彼が人並みに年を重ねていたのかどうかさえ知 らないくらいだ。
一度ならず指摘したことだが、シュルレアリスムがもはや放射性物質ではなくなった多くのごく若い人たちにとっても、ブルト ンは依然として、不動の、頼りがいのある保証人、いわば、ひそかに頼れる頼みの綱であることに変わりはなかった。すなわ ち、沈黙を守っていてさえ、彼の存在は我々の世紀に重みを加え、不思議な権威を持った財宝の守護者たることを失わな かったのだ―彼の思想、あるいは彼の影響力に たとえ無関係であっても、何人も彼がそこに存在していることを忘れること はできなかったのである……
彼を失った今宵、彼が〈茂った雑草〉、〈自然のままのもの〉、〈緑なすもの〉に寄せていたあの嗜好が見られる文章のいくつ かが、なぜかとりわけ、春のように私に甦ってくる、《目は未開の状態である》、《雪のなかの雪片よりも軽々しく》、あるいは彼 の引用したシャトーブリアンのことば、《ブルターニュの子である私は曠野が好きだ。その貧しい花は私の飾りボタンに挿す ただひとつの色褪せぬ花だ。》
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