仏文学者・故生田耕作氏の未亡人・かをるさんが亡くなってちょうど1年。67歳という早すぎる死であった。
戦後随一のプライベートプレス、サバト館を設立し、夫である生田耕作氏の訳業を公私ともに支え続けた労苦と業績は、極めて偉大であったと言わねばならない。サバト館の数々の美装本は、まさに彼女のセンスと努力の賜物であった。それは後世まで永遠に残るであろう。
戦後随一のプライベートプレス、サバト館を設立し、夫である生田耕作氏の訳業を公私ともに支え続けた労苦と業績は、極めて偉大であったと言わねばならない。サバト館の数々の美装本は、まさに彼女のセンスと努力の賜物であった。それは後世まで永遠に残るであろう。
こうした彼女の努力の源は、すべて夫・生田耕作氏への熱い愛と尊敬によるものであった。美と浪漫を旨とする文芸出版社の女主人にふさわしく、彼女は情熱的な愛に生きる女だった。そしてその愛は、すべて夫に注がれ、愛する男が自分の支えによって、素晴らしい文芸の華を咲かせる様子を見て、女としての最高の幸せを味わい続けたに違いない。
二人が住まう京都・鷹峯の自宅を、夫・生田耕作氏が「双蓮居」と名づけたのは、氏がそのことを何よりも理解していたからに他ならない。夫婦二人が力を合わせることで、すべてが息づくのであった。
最愛の夫が亡くなって15年、ようやく、彼女は夫とともに墓の下で眠ることになった。吉野太夫の墓で有名な鷹峯の常照寺の一角に、二人が眠る墓はひっそりと佇んでいる。墓石の傍らには、彼女が愛した薄紫色の〈ホトトギス〉の花が咲き、忍冬のように蔓が地を這い、絡みあっている。彼女は波乱の人生を終え、夫とともに双つの蓮となって、今頃は幸せな眠りについていることだろう。本当にご苦労さまでした――。