2015年6月30日
アスタルテ書房・佐々木一彌氏追悼

松本完治(特別寄稿)

2015年6月15日未明、入院先の病院で、佐々木一彌氏が亡くなられた。享年61。あまりにも早い死だった。全国で20人しか発症していないという原因不明の難病に苦しめられ、私の知る限り、約2年にわたって入退院を繰り返すという闘病生活を強いられてこられたが、ついに快方に向かうことなく逝ってしまわれた。
入院中のお見舞い、束の間の退院期間中に共にした晩餐や花見など、闘病の合い間にご一緒した機会は数知れず、そうしたなかでも、氏は深刻な病状に対して一切弱音を吐かず、あくまで前向きに明るく振る舞われていたのは、常人の為せる業ではなかった。それは氏が並々ならぬ強靭な意志の人であることの証左であった。
思い起こせば、氏とは30年来の長いつきあいだった。1984年に三条の池田屋ビル3階で、仏文学者・生田耕作氏命名によるアスタルテ書房が開店して以来のことだった。10歳近い年上の氏を先輩と仰ぎ、先斗町など柳暗花明の巷を幾度ご一緒したことだろう。
1987年にサバト館が神戸から京都に移転したのを機に、生田耕作氏がたびたびアスタルテ書房にやって来られるようになると、店内は生田氏の存在感によって、華やいだ文芸サロンと化したものだった。7時の閉店後に、生田氏や佐々木氏らとご一緒に、幾度、先斗町の「安達」など、花街のお店へ繰り出したことだろう。生田氏を中心に、その酒席は文学・芸術の談論風発、たびたび深更に及んだものだった。
アスタルテ書房は、佐々木氏の頑固とまで言える徹底した美意識に貫かれた店だった。インテリアの美観から古書典籍の配置に至るまで、19世紀末からベル・エポックの巴里を髣髴とさせ、それは池田屋ビルから現在の御幸町に移転後も、より顕著なものになった。生田氏の薫陶により、祇園・先斗町の花柳界に足繁く通い出した氏は、日本の奥深い花柳文化に開眼し、野暮天の私とは違い、歌舞音曲やスマートな遊びを通じて、その美的感性をさらに洗練させ、その趣味・嗜好は、氏の生涯の知己である画家・金子國義氏と相通ずるものだった。
いわば氏の個性、醸し出す雰囲気、独特の痩身の顔と身体等、存在そのものが、アスタルテ書房のスペースと一体化し、氏がいなくてはならぬ小宇宙と化していただけに、アスタルテ書房は一代限りの宿命を自ずから帯びていたのかもしれない。携帯電話やパソコンを永遠に拒否し続けた頑固さは、氏の徹底したアナクロニズム、反時代的美学の一端を物語るものであろう。
今年3月に金子國義氏が逝った時、大きな衝撃を受けた氏は、まさに後を追うように逝かれた。文学・芸術に一家言ある世代が次々と旅立たれる昨今、氏の死は、深い寂寥と文化亡国への危機感を募らせるものだ。
毎年、10月21日の鴨東忌に、敬愛する生田耕作氏の墓前にお酒を供えに行かれた氏であったが、昨秋、入院中で墓地へ行けない代わりに、短時間外出許可を取得して、アスタルテ書房で「生田耕作氏を偲ぶ夕べ」を催されたのが、氏の公の場での最後の勇姿であった。
病床で私の訳書『塔のなかの井戸』や『マルティニーク島蛇使いの女』を再三再四読み返され、絶讃を戴いたことは忘れられるものではない。急逝の一週間前にお見舞いに上がった時の、回復を約した会話と笑みが最後だった。氏との思い出は数知れず、今は在りし日の数々の姿を偲びながら、稀代の《反時代的美学の徒》を失った悲しみと共に、ご冥福を祈るばかりである。
前のページへ
次のページへ
このページのトップへ
このページを閉じる