2012年9月9日
コルヴォーを探して
新刊書店にはほとんど出向かないが、久しぶりに何気なしに立ち寄ってみると、偶然目に入った書物があった。『コルヴォーを探して』A・J・A・シモンズ著、河村錠一郎訳、早川書房刊とある。なんと河村氏が、『ヴェニス書簡』の訳業以来、18年振りに、コルヴォー男爵関係の訳本を出されたのだ。奥付を見れば、今年8月25日刊行で、まだ日が浅い。コルヴォー男爵の活字を見て何とも懐かしく、偶然の発見に喜びながら、すぐさま購入した。
コルヴォー男爵、すなわち、本名フレデリック・ロルフ(1860〜1913)。英国の世紀末から20世紀初頭まで、聖職者になることを夢みながら、その虚飾と奇行と借金まみれの破天荒な生き方で果たせず、晩年には債務と中傷から逃げるようにヴェニスに落ちのび、そこで極貧に喘ぎつつも、ゴンドラ乗りの少年たちのヌードを撮りながら、男色に耽るデカダンそのものの破滅型作家…。トーマス・マン『ヴェニスに死す』のモデルとなり、代表作の一つである長篇小説『ハドリアヌス七世』が、死後にD・H・ロレンスやグレアム・グリーンの激賞するところとなったにもかかわらず、文学史から完全に忘れ去られた不遇の作家…。
このたび、河村氏が訳したのは、死後21年後の1934年に、すでに忘れ去られていたコルヴォー男爵の全貌を追い求めた好事家、A・J・A・シモンズ畢生の伝記文学の傑作である。すでに原書で一読していたが、あらためて訳書で再読すると、そのスリリングな推理小説仕立ての探索譚は、やはり傑作の名に恥じない。
河村氏は、すでに1960年代に神田の古書店で、偶然、コルヴォー男爵の原書を発見、以後、彼の魅力に取り憑かれ、81年に雑誌『海』に彼を紹介、86年に『コルヴォー男爵 知られざる世紀末』を単行本として発表、94年にはコルヴォーの露わな男色書簡集『ヴェニス書簡』を訳されるなど、日本におけるコルヴォー男爵のただ一人の紹介者として、息長く訳業に勤しんでこられた。そのご労苦にあらためて敬意を表したい。
河村氏は、すでに1960年代に神田の古書店で、偶然、コルヴォー男爵の原書を発見、以後、彼の魅力に取り憑かれ、81年に雑誌『海』に彼を紹介、86年に『コルヴォー男爵 知られざる世紀末』を単行本として発表、94年にはコルヴォーの露わな男色書簡集『ヴェニス書簡』を訳されるなど、日本におけるコルヴォー男爵のただ一人の紹介者として、息長く訳業に勤しんでこられた。そのご労苦にあらためて敬意を表したい。


コルヴォー男爵の名は、実は小生、河村氏が最初の単行本を出される前に、生田耕作先生からその魅力を聞き及んでいて、英国や米国で刊行されたコルヴォーの著作や関係書のほとんどを買い漁った懐かしい思い出がある。『ヴェニス書簡』の男色の露骨な描写や、コルヴォーの撮影になる少年のヌード写真に驚いたり、長篇歴史小説『ドン・レナート』の初版復刻版を手にし、コルヴォー自らが描いた絢爛たる表紙デザインに陶然としたものである。そして、この作家はぜひとも日本で紹介されなければならないと願っていた矢先に、河村氏の紹介本が刊行されて拍手喝采を送ったものである。
三島由紀夫
「碧い、碧い、碧いトルコ・サファイアの、そして時には藍色に染まる入り江」とコルヴォーは、ヴェニスの風物をこの上なく美しく描きあげる。1908年から、野垂れ死にする1913年までは、ヴェニスの美しい風光と美少年を愛する余り、本国イギリスに決して帰ろうとはせず、着のみ着のままゴンドラの船上で寝起きせざるを得ない極貧に瀕しながら、天国と地獄を行き来した6年間であり、コルヴォーの文学的才能がさらに開花した人生のフィナーレであった。河村氏は言う、「ヴェニスの光と影を、少年たちを、ゴンドラを、アドリア海の水を愛し、愛したがために身を滅ぼした」と。
とりわけ『ヴェニス書簡』は、発表を意識することなく書き綴られた手紙だけに、少年たちとの愛のやりとりや性交までもが生々しく綴られており、1972年まで無削除版を刊行することができなかった禁断の書であった。しかし河村氏は、A・J・A・シモンズが『ヴェニス書簡』に衝撃を受けたのは、倒錯の性への耽溺を告白していたからではないとして、シモンズ本人の文章を次のように紹介している。
「教育もあり、思想もあり、天才といってもよい男が悔悟の念ひとつなく無垢な少年たちを汚すことに喜びを抱いたという事実、あのイタリアの街の暗黒の裏路地を知りつくし、その知識を取引に金を得ようとした事実、狂気のごとく執拗に肉欲の道を追い続けることもしかねなかった事実――これらのことが私に衝撃を与え、私を怒らせ、私に憐みの情を持たせたのである。憐み――なぜといって、これらの書簡は、醜い驕慢と阿諛の背後に、着るものや食べものを買う金、燈り代にもことかき、なにひとつない空っぽの船の底のような所に鼠のように暮し、才能の挫折と好機の逸失を思い、惨めな気持で裏道をこっそりと歩き、ポケットには一文の金もなく胃袋には一片の肉もなく、絶望の丘を滑り落ちて、最後には、すべての人間が自分の敵であると確信するに到った男の、痛ましい物語が綴られていたからである。」
そう、『ヴェニス書簡』は、単なる異端の好色文学ではない、天国と地獄を一身に体現した男のぎりぎりの生の物語であったのだ。そして、それは自らの死を予告した遺作長篇小説『全一への希求と追慕』に結実する。この題名はプラトンの『饗宴』の一句、 《全一への希求と追慕、それが愛といわれるものだ。》 から引用されており、これこそがコルヴォーが生涯をかけて追い求めたものだった。つまり、二つの愛し合う個体が見事に合体して初めて存在が完遂するという、究極の愛のすがたである。
遺作長篇『全一への希求と追慕』は、主人公ニコラス・クラッブとその小間使いの男装の美少女チルダとの究極の愛の物語だ。ヴェニスの紺碧の水路、明るい陽光、ヴェニスの空と水以外何もない美しい舞台で展開される痛ましくも切実な究極の愛のドラマ。後年、詩人のW・H・オーデンをして嘆賞せしめ、数々の読者から、文学史上、これほどヴェニスを美しく描いた作品はないと言われたコルヴォーの絶唱…。小説の結末は、ニコラスとチルダの愛の抱擁で幕を閉じ、「愛によって報われた」との言葉で終わるが、現実のコルヴォーは、ヴェニスの運河を見下ろす安アパートの一室で、誰一人看取る者なく、貧窮と孤独のうちに息絶えるのである。フィクションによって天国を見ようとした彼のあまりにも痛ましい死であった。
オスカー・ワイルド、オーブレ・ビアズリー、そして『イエロー・ブック』で一度はデビューしたコルヴォー男爵ことフレデリック・ロルフ。第1次世界大戦勃発の前年である1913年の彼の死をもって、デカダンで絢爛華麗な世紀末は幕を下ろしたといってもよい。その前年に発表されたトーマス・マンの『ヴェニスに死す』は、コルヴォーの死を予言した世紀末の葬送曲であるかのようだ。
遺作長篇『全一への希求と追慕』、この世紀末の絢爛たる大輪の花を、できれば河村氏に全訳してほしいが、この大冊を訳すのは相当な労苦と困難な採算が伴うであろう。それなら当社でやってみようかと、財源乏しき極小出版社が夢見る今日この頃である。
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