知人の紹介で、「ビターズ2滴半〜村上三郎はかく
語りき〜」(坂出達典 著 2012年7月 せせらぎ出
版刊)という変わった題名の本を見せられ、思わず購
入、早速一読してみた。
それにしても、何とも奇抜な装丁の本である。
表紙と 裏表紙の中央にそれぞれ窓が作られ、窓からは薄いザラ 半紙が覗いている。その意味は本書を読めばわかるので、 あえてここで説明しないでおこう。
著者は、西宮北口にある「バー・メタモルフォーゼ」の主人。本書の副題にある村上三郎という人物は、その店に出入りした常連客だ。
それも1992年3月から同氏が死ぬ96年1月までの約4年間、店でしか出会っていないのに、著者は、氏の没後16年たった今、氏が店内で語った数々の言動や奇行を記録として残しておきたいという昔年の望みを、ついに本書に結実させたというのだ。
それだけに、村上三郎という人物が著者に与えたインパクトは鮮烈で、本書を読めば、その様がヴィヴィッドに伝わってくる。
それにしても、何とも奇抜な装丁の本である。
表紙と 裏表紙の中央にそれぞれ窓が作られ、窓からは薄いザラ 半紙が覗いている。その意味は本書を読めばわかるので、 あえてここで説明しないでおこう。
著者は、西宮北口にある「バー・メタモルフォーゼ」の主人。本書の副題にある村上三郎という人物は、その店に出入りした常連客だ。
それも1992年3月から同氏が死ぬ96年1月までの約4年間、店でしか出会っていないのに、著者は、氏の没後16年たった今、氏が店内で語った数々の言動や奇行を記録として残しておきたいという昔年の望みを、ついに本書に結実させたというのだ。
それだけに、村上三郎という人物が著者に与えたインパクトは鮮烈で、本書を読めば、その様がヴィヴィッドに伝わってくる。
開巻早々、初めて村上三郎が来客する場面――。西宮北口界隈では、村上氏が夜な夜な一人で飲み歩くので有名で、著者はかねてより知人からその噂を聞いていたにもかかわらず、カウンター越しの初対面でいきなり「君はホモですか?」と聞かれ、たじろいでしまう。あわてて否定する著者に対して氏は「この店の構えを見ればよくわかる。君がホモだと。」と言って譲らない。しかも、お好みのストレートのジンにビターズを2滴半垂らしてほしいと言う。著者が無理だというのを聞かず、無理矢理入れさせられると、4滴も垂れてしまい、「それが出来ないようでは…君もまだまだ…」と言う始末。
これがきっかけで、以後、止まり木のように、村上氏は「バー・メタモルフォーゼ」に通い始める。そして数々の奇行、言動が続く。
村上三郎という人物は、実は、神戸松蔭女子大学の美学教授なのだが、すでに1950年代から、ダダ的パフォーマンスの作品展(出品というより、無意味なパフォーマンス)を国内外で演じてきた筋金入りのいわゆる《ダダイスト》であった。
しかし著者は、そんな肩書きや実績などよりも、この60歳代後半の初老の人物が放つ生身の《ダダ》的精神に徐々に魅惑されていく。曰く
「V感覚は閉じられた世界、それはつまり生活世界の話で、A感覚こそ、肛門から消化器を通って口へ通じる無限空間への解放だ」
「この世はすべて幻影、生きているというのは夢や」
「時間に対する幻想を拭い去ること、時間は縦に流れる」
「無意味であること、表現しないこと、それが無限を立ち上がらせる」等々、
折に触れて氏の発言が紹介される。
さらに《パフォーマンス》の意味を軽々しく議論するスノッブの客の話を聞いていた氏が、いきなりビール瓶を床にたたき割って、皆を沈黙させた事件等々(割れたビール瓶は真のパフォーマンスの形見として今も保存されている)、氏には、作品とか表現などという些少な現実事象を超越した感覚や行動が備わっていて、読者もその様子に魅惑されていくのである。
村上氏は、1996年1月、毎度ながら明け方4時頃まで一人で飲み歩き、自宅玄関先で転倒、脳挫傷で死んだ。まさに氏らしい死に様であった。氏のダダは、トリスタン・ツァラの言う教条主義的なダダではない。ダダが存在するとすれば、それは生身で体現する無意味、現在という時間がすぐに過去のものになる三次元世界の枠を突破する行動であり生き様であり、村上三郎その人であった。氏の魅惑的な言葉が読後の私の脳裏に未だに谺している。
《生きているということは批評してもらうのではないのだ、つまりは〈気迫〉だ。
ただ生きて死ぬだけだ》
《道端の石ころが宝石に見えたら君も一流》
ただ生きて死ぬだけだ》
《道端の石ころが宝石に見えたら君も一流》