2017年6月12日
荒廃せる現代世界への叛逆のメッセージ
6月初旬、一年振りに渡仏し、パリでアニーさん(アニー・ル・ブラン)に再会しました。アニーさんのご自宅にお招きいただき、そのあと、彼女の行きつけのレストランで晩餐。このレストランは天井が高くて広々としており、19世紀のアールヌーヴォー調のインテリアと大衆的な雰囲気で、古き良きパリを髣髴とさせ、値段もさほど高くないのに、料理は大変美味でした。このようにきらびやかで、昔ながらのフランス料理が廉価で食べられる店が、パリで徐々に少なくなっているのを実感していた私は、久方ぶりに往年のパリの雰囲気に陶然としたものでした。そしてまた、アニーさんが昨年の来日時よりも若返って見えたのにも驚きました。
翌々日、フランス人の友人夫婦の車で、南仏のサン=シル=ラポピーへ向かいました。サン=シル=ラポピーは、言わずと知れたアンドレ・ブルトンの別荘がある、中世の美しい村です。午前10時にパリを出発、高速道路で、オルレアン、リモージュ、カオールへと約600キロの行程を南下、カオールで高速道路を降り、ロット川沿いの断崖絶壁下の道を40キロほどくねくねと進みます。石灰岩高原地方特有の白い岩肌や、時折、赤茶色の屋根が密集した小さな村が見え、何とも美しい光景が続きます。小一時間ほど進んだ頃、前方に、ロット川から屹立した断崖絶壁上に、赤茶色の屋根をした教会の尖塔を頂点に、世にも美しいサン=シル=ラポピーの村が見えたのでした。すでに午後6時でしたが、6月のフランスはまだ明るく、私たちは村の中心で晩餐、教会からすぐ下に降りた絶壁上にあるブルトンの旧家の周りを散歩しました。
サン=シル=ラポピー遠景
翌朝、ブルトンの旧家を村と共同で管理している《あり得ない薔薇》財団 l’association La Rose impossible 主宰のロラン・デューセさんが村に現れました。彼はナディーヌ・リボーの知人で、今回、ブルトンの旧家の中へ私たちを案内しようと、わざわざ、住まいのあるリモージュから電車とバスを乗り継いで、村に来てくれたのでした。大のブルトン狂いで、サン=シルでのブルトンのエピソードを機関銃のように話しまくる好人物です。2003年にオーヴが父・ブルトンの遺品を競売にかけた際、反対ビラをまいたことがあるそうですが、現在はオーヴと良好な関係にあるそうで、財団として寄付を募りながら遺品を買い戻そうと頑張っておられるとか。ロランさんは自らも詩集を一冊、そして『私は他の場所にいたいと思わなくなった』というタイトルの本、つまり、サン=シル=ラポピーを訪ねたブルトンの言葉を表題としたブルトン論の集成本に名を連ねています。
アンドレ・ブルトンの家
サン=シル=ラポピーは現在、《フランスの美しい村》に指定され、観光客が訪れるようになっていますが(バカンス中は混雑するらしい)、パリでアニーさんに伺ったところ、シュルレアリストたちがブルトンの家に集った1950〜60年代頃は、名も知られぬ小村として旅行客も来ず、ブルトンを訪ねるシュルレアリストたちは、村人の家の一間や空き家に泊まったそうです。
その日、ロラン・デューセさんが村役場で鍵を借り、ブルトンの家に入らせていただき、各部屋を案内いただきました。その内容については、またの機会に譲るとして、もともと13世紀に、ロット川を航行する船見櫓(塔)と船頭の宿泊所として建てられ、その名も「マリニエ」という宿であった建物が、長く空き家となっていたのを、1950年にブルトンが買い取り、シュルレアリストたちの手助けで修繕を施し、翌51年から66年に亡くなるまで、毎年バカンス中に逗留していたのでした。
ブルトンの家の窓から
1950年6月、カオールで《世界市民運動》──あらゆる形態の国家的戦争に反対して、国家や国境なき世界市民権を要求する運動で、ブルトンは講演など積極的に賛同、現在もその運動は継続しており、サン=シル=ラポピーに訪れる運動家たちはブルトンに敬意を表し、ブルトンの家のそばに彼の好んだ石を捧げている──の祭典が開催された際、カオールからサン=シル=ラポピーへ続く道を、世界ルート1号線(国境なき道)に認定する開通記念ドライブに参加したブルトンは、その夜、ベンガル花火に照らされたサン=シル=ラポピーを初めて目にし、1年後にその感動を村の芳名録帳に、次のように綴っていたのでした。

1950年6月のこと、世界ルート1号線──唯一の希望の道──の開通を祝したドライブの終着点でのことでした、ベンガル花火に照らされたサン=シルが私の目の前に現れたのです──それは夜の中のあり得ない薔薇のようでした。戻って来た次の日の朝、その花、驚くべきことに、炎が尽きたにもかかわらず、完全な姿を留めていたその花の芯に身を置く誘惑に駆られた私は、たしかに稲妻に打たれたに違いなかったのです。他のどんな場所よりもはるかに──アメリカやヨーロッパのどんな場所よりも──サン=シルこそは私にとって唯一の魅惑の場所に思えたのです。永遠に住み着く場所として。私は他の場所にいたいとは思わなくなりました。
アンドレ・ブルトン
サン=シル=ラポピーにて、1951年9月3日
ブルトンは、この他にも、娘オーヴや知人宛の手紙で、夢のように美しいと、この村への賞讃を惜しみませんでしたが、まさにその現場を目撃した私は、ブルトンの言ったことが決して誇張ではない、その予想を超えた美しさに感動を禁じ得ませんでした。
その後、ロランさんの案内で、約10キロ離れたカブルレ洞窟へ行き、1952年にブルトンが洞窟内で、先史時代の壁画を指で触れたところ、素描が消えてしまい《歴史的記念物損壊罪》に問われた、いわく付きの場所を巡りました。現在は、洞窟内の多数の壁画は触れられないよう防護されていますが、ロランさんの案内で、実際にブルトンが触れた絵を見ることができました。
そして、ロット川沿いのレストランで夕食後、店の階下にある財団の会議室兼映写室で、1964年にシュルレアリストたちがサン=シル=ラポピーで撮った秘蔵の無声短篇映画「Le Surrealisme」を見せていただきました。この映画にはブルトンをはじめ、エリザ夫人、トワイヤン、ジャン・ブノワ、ミミ・パラン、ラドヴァン・イヴシックなどが登場し、映像の中で動いている彼らを初めて目にして、驚きを禁じ得ませんでした。しかし、著作権の関係で、まだこの映画は公開を禁じられており、ロラン・デューセさんは今後も著作権の許可を得るために努力されるとのことでした。
その翌日、私たちは、ブルトンが死の前日に、エリザ夫人やイヴシックと共に救急車でパリへ向かった道筋をたどって帰ったわけですが、ブルトンとイヴシックが救急車内から夕陽を共に見た地点は、おそらく、もっとも平原が広がるシャトールーからオルレアンの南部あたりの間ではないかと見定めたのでした。無事パリに着いた時、サン=シル=ラポピーが実際にこの世に存在していたのかしらと、夢から醒めたような、何ともいえぬ感覚に襲われたものでした。
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